中世史をやっている人ならば、一度は行ってみたいところ、そう、ここは六道珍皇寺!!


中世には鳥辺野と言われた東山五条の一帯。当時の庶民たちは風葬という風習があったので、鳥辺野に葬る前にここ六道珍皇寺で供養をしてから、鳥辺野に死体を捨てに行ったと、今日、六道珍皇寺で聞きました。

上は珍皇寺の赤門と呼ばれる門です。

本日は冬の非公開文化財特別公開の日に当たっていまして、解説の奉仕活動をしているおじいさん等がたくさんおりまして、あれこれと詳しく解説をしてくださいました。

上は本堂。江戸時代の再建だそうです。この寺、由緒は古いらしく小野篁と関係があるそうなんで平安時代初期にはあったようです。境内からは奈良時代の瓦も出ているとかいないとか。

本堂内部では珍皇寺参詣曼陀羅やら熊野観心十王図といった仏教の六道観を現した絵図なんかを展示していて、それについて奉仕活動の面々が懇切丁寧に解説をしてくれました。とてもわかりやすくよかったです。道徳教育では、こういう絵図を見せて悪いことしたやつは地獄で舌を抜かれたり、剱山を登らされたり、血の池に落とされたり、板に胴体を挟まれてのこぎり引きにされたりするんだぞ!と、日本人的な道徳観念を植え付けてやって、悪いことができないように、恐怖心を植え付けてやりゃあいいと思います。

これは鐘楼です。

六道珍皇寺は鳥辺野に近かったせいか、死者の魂を呼ぶのにも大活躍みたいだったみたいで、ここの鐘楼は鐘突き押してつくのではなくて、引いて突くようになっている、一風変わった鐘楼になっています。密閉空間になっていて、外から見えないのも特徴的です。


他にも重要文化財薬師如来像や播磨守護赤松家所縁の品々が展示されていたりと(実はこっちが見たかったのだが、古文書等はなく扁額や刀、構成に作られた肖像画などがありました。)、見るべきものはあります。

それと小野篁が夜な夜な閻魔様の許に通っていたという井戸がありました。ここに夜な夜な落ちていたのでしょう。森見登美彦氏『有頂天家族』に出てくる鴨川家の次男は蛙に化けたまま戻らなくなって、遂にこの井戸に居ついてしまったのですね。


小野篁の出口は嵯峨大覚寺の近くにあった福生寺の井戸だったらしいのですが、明治になって廃絶したそうです。


それにしても現在の清水坂付近は高級住宅地の体をなしていますが、中世の昔は風葬の地だったのに、どうしてこんな高級住宅地や観光地になっていったのでしょうね。六道珍皇寺のあたりは清水坂非人宿があったと言われていますし、今でも関連地名に残っていますが、どうしてでしょうね。不思議でなりません。