後期に入ってから、能の授業を受けている。


後期の後期からは実際に演技をやっていくらしいのだが、先週・今週と世阿弥風姿花伝』を読んでいる。といっても講義形式で、おれたちは能の先生の実体験を踏まえた解説を聞いているだけという極めて楽な授業である。


しかし今日読んだ『風姿花伝』「年来稽古条々」は本当に身につまされる話であった。


七歳の頃は、みんなからちやほやされるのだけど、子供は子供の自然と出てくる風体があるから、それをそのままのばせばよい。

十二・三歳のころでもみんなからちやほやされるのだけど、物心もついてくるからそういうのもわかってくる。だけどこの時点のものは「まことの花」ではない。ただ「時分の花」である。という。

十七・八歳のころには、第一の花は失せる。声変わり、成長期、反抗期で失せる。こういうときこそ、能を捨てないで稽古に打ち込む外は、能をのばすことはできない。ここを捨てると能は止まる。


そして

二十四五
この比、一期の芸能の、定まる始めなり。さる程に、稽古の堺なり。(中略)立合勝負にも、一旦勝つ時は、人も思ひ上げ、主も上手と思ひ染むるなり。是、返々、主のため仇なり。これもまことの花にはあらず。(中略)されば、時分の花をまことの花と知る心が、真実の花に猶遠ざかる心也。ただ、人毎に、この時分の花に迷ひて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すは、この比の事也。(後略)

芸歴ははるかにおよばないが、年齢的にはどんぴしゃな我々としては身につまされるぜ。


おごりはまさに身を滅ぼすということである。


そしてこのころの努力を怠ると、三十四十になって花は枯れるということだ。


先生も言っていたのだが、大器晩成する人は、20代からすでに輝いているのだという。大器晩成型だといってふらふらしている人の方が、だめなのだ。常に稽古を怠らず、慢心せず、物事にいそしむことが何よりも肝心なのである。


五十になるともうなすすべはないと世阿弥は言っている。今50代と言えばまだまだだが、当時の感覚では今の70代80代なのだろうか?


なにはともあれ、20代の努力があとの人生を決するという能について勉強する授業のはずなのに、人生についてこんなにも深く考える授業になってしまった。というか、大学の授業ってこんなんだったっけ?


前に自分で読んだ時も、いろいろと思うところもあったんだけど、やっぱり能の先生から直に話を聞くのと臨場感が全然違うよね。あー面白かった。