昨日は大山崎を歩いてきた。



まず行ったのは宝積寺。


通称宝寺と言って、山崎の町の精神的紐帯となった寺。一方で足利将軍家からも庇護を受けて流星した寺。今はだいぶ規模は小さくなってしまっているけど、それでも重要文化財も持っているし、何よりも宝積寺文書を持っているのである。


鎌倉時代の閻魔像がすごくよかった。閻魔様の眷属の像も全部そろっていて、仏教に詳しい人がいろいろと教えてくれたのである。


そしてここを通り抜けて、天王山へ。

ここは天王山の中腹にある酒解神社。

ここも鎌倉・室町期には山崎の町の精神的紐帯だったらしい。今でもお祭りでは、ここから麓の町まで神輿を降ろして町内を練り歩くらしい。


結構大きな本殿なのね!

んで、これが神輿を入れている校倉。正倉院の校倉と違って、木を立てて組んであるのだけど、鎌倉時代のものらしくかなり古いらしい。山崎の戦いの時にもよく焼けなかったもんだ。



ここが天王山山頂にある山崎城。現在の遺構は豊臣方によってかなり改修がなされているものらしい。

これはその時の石垣。曲輪など至る所に残存している。これでも残りのいい方。

俺には横穴式石室の奥壁にも見える。織豊期の城郭の特徴として、そこいらにあった石塔類を石材として利用していたらしいのだけど、ここも例に漏れずそういうものがたくさんあった。


ここを降りて次に向かったのは、大山崎の油座で有名な離宮八幡宮。ここは荏胡麻油が衰退していこう、神社も随分衰退して行ってしまったのでかなり小さくなっている。


そして本日のメインである大山崎町立歴史資料館に。なんと古文書を見せてもらえることに。


訪れたときにたまたま地域の小学生が手がけた展示がやっていたのでそれも見学した。ここでは山崎の小学生中学生が総合学習の時間で地域の歴史や地理を色々調べて、それをパネルにしたものが展示されていた。これが意外によく出来ていた。特に小学生の作ったものは手が込んでいて、逆に中学生のはそこまでたいしたものではなかった。


その時に学芸員の方が、「実証研究と歴史教育の間をどうやって埋めていくのか」ということを熱心に語ってくれた。学芸員・教員志望でもない自分はあまり考えたことのなかった視点だったので案外新鮮であった。


実証的には「わからない」というべきことが知りたいことであったり、「わからない」ことがあるということをわかってもらうことを重視する歴史学者と、地域の歴史を知りたい教育現場の先生という図式があったりと歴史を教育していくことの難しさを感じさせられた。

また資料館では地域の子供を対象にしたセミナーみたいなのをやっているのだが、子供は大人には思いつかない柔軟な発想力を持っていて、いろいろ示唆させられることがあるのだそうだ。それって実はとても重要なことなんじゃなかろうか。大学にいてはわからない色々なことを子供は教えてくれるのかもしれない。


古文書は今まであんまり見たことのないたぐいのもので、こっちも新鮮な驚きと面白さを感じた。




このあとは例によってサントリー山崎蒸留所に行く。

行ったときには、運良く蒸留していて、他にも樽の点検作業をやっていて、今まで行った中でもいろいろなものを見ることが出来た。


蒸留は前にもみたのだけど、今回は勢いよくニューポットが出ていて感動した!!



最後に長岡京の開田城に行った。


とあるマンションが建っているのだが、それを囲繞するように土塁が残っている。


ここは遺跡保存運動が起こったところなのである。中世の館あとがあったところなのだ。その結果土塁の一部は保存されてきれいになっている。




とまあ、例によって面白い遠足であった。歩き回って疲れたけど。