というわけで読んでいたのが↓

家出のすすめ (角川文庫)

家出のすすめ (角川文庫)

寺山修司、家の書架にあって何気なく読み始めたのがきっかけだったのだが、要するに面白かったのだ。


前々から寺山修司は読んでみたいと思っていたのだが、なんとなく敬遠して大学生活をすごし、本来なら違う本を読むべき社会人になって手を染めてしまった、不幸な私。


ともあれ、感想をば書き記さむ。

望郷の歌をうたうことができるのは、故郷を捨てたものだけである。そして母情をうたうこともまた、同じではないでしょうか。

地方の若者はすべて家出すべきです。

なんとも過激でかつ、逆説的、否、逆説です。


「何をすべきか」――(中略)――ということの基準を作ることを主体の確立と呼ぶならば、それは百の論理よりも、一つの行動に賭けてみるということではないでしょうか!


家を出ろというわけです。解説にはその方法として、本書の後半に書かれている悪徳、反俗、自立が挙げられていますが、とても印象的だったのは、日本的な「家」と「母」からの決別でした。


「家」の機能として経済的、身分的、教育的、宗教的、慰安的、保護的、愛情的の七つをあげ、今では愛情的機能しか残っていないと述べています。愛情的機能を代表するのが母です。


これを断ち切らない限り、若者(子供)の真の自由と主体は形成されんというわけなのです。



この本を出したときは1963年で、今とは社会情勢が違いすぎていますが、やはりいうことは新鮮に聞こえます。


家とはあるものではなく、成すものだと寺山は言います。同感です。


今は、寺山が生きていたときに比べて、家ははるかに愛情的機能に特化していると思います。学校へ行った後、塾へ通うというのは、その典型ではないでしょうか。親の「愛」によって、さらなる教育を施されているのです。


多分に「成された家」が多くなった現代、ものすごい量の愛情を注入されているのではないでしょうか。


「やりたいことをやればいい」というのも同じです。寺山は自分の飼っている犬を例に挙げていますが
、犬は鎖を外しても大して行動半径が広がらず、家に帰ってくるのです。今の若者も同じだと言っています。


真の主体というものを見つけようとするとき、家出をして、帰らないというのは一つの方法かもしれません。


かわいい子には旅をさせよとはうまくいったものです。



とまあ、徒然に書いてしまいましたが、もっと若いときに読んでおけばよかったと後悔し、またこれを読んでいた妻をうらやましくも思い、ぜひとも子供には読ませたいと思ったのでした。


親の「愛情」ですね。ヤバイ。寺山修司にはまりそうです。