上の続きから。


昼に行ったので、近くにあるマックに入った。肉板パン挟みを食べ終った後、読書に耽っていると、ぎゃあぎゃあ餓鬼の声が。


またかよー最近の餓鬼どもはうるせーなあやっぱり注意しない親なんだなー燃やしてやりてぇなーと思っていたら、その親=若いママさん連中が後から来て子供が走り回っているのにも関わらずせっせと席を確保し始めた。

俺の座っている周囲に砦を築くように!!!なんじゃおまいらわしにどけっつってんのかと思いつつ、読書を続行しよう思っていると視線が痛い・・・ああわかりましたよ私の負けですどきますよああもう仕方ないなあ愚民どもに席を明け渡してやるか!!


というわけで、前置きが長くなったが

他人を見下す若者たち (講談社現代新書)

他人を見下す若者たち (講談社現代新書)

を読んだ。


タイトルだけ見て即買い。結構自分自身感じているテーマだったので、気になった。


筆者は教育学および心理学の方法を用いて、小中高大の学生・先生にアンケート等を実施して、いわゆる若者の意識を抽出し、仮想的有能感という概念を設定している。


仮想的有能感とは「現代とは自己肯定感を求める時代であるが、そのなかには他者軽視によって生じる偽りのプライドを持つ」「過去の実績や経験に基づくことなく、他者の能力を低く見積もることに伴って生じる本物でない」感覚である。


平たく言えば、他人を見下すことで自分のプライドを保つというタイトルそのままのことですね。

詳細は省くけど、若い人は仮想的有能感を持つ人が多いらしい。


また人間の感情との相関関係を調べ、そうした人は「怒り」の感情を覚えやすく「悲しみ」感情を覚えにくいということを指摘している*1


こういった仮想的有能感を持つに至った背景には、一一説明しないが、ご都合主義の個人主義*2やITメディアの普及とそれに伴う対人関係の希薄化が原因と考えられる他者を人間と思わない子供などの要因を挙げておられる。要するに「誰にも迷惑掛けてないし、カンケーないじゃん」という感覚らしい。「大衆はバカ」とか。


このままだと、ご都合主義の個人主義だけが先走っちゃって、他人を敵だと見なす世の中になっちゃうよー!!と警鐘を鳴らすというのが大体の論旨ですか?


私、そういう「若者」の部類に入るのですが、「自分自身そういうところあるなあ」と首肯できるところも多かったり。特に他人を見下すところとか。親しい人ではなく自分と関係のない他人、いわゆる「大衆」はアホだなあと思うことがよくある。昔からそういう学生もいたらしいけど。


今の人は、他人を見下してプライドを保つだけで、保ったプライドで何かを為すという気概に欠ける、つまりやる気に欠けているらしい。


それはそれで一理ある。子供の教育は気をつけようと思ったりする。


いろいろ疑問点もあります。今昔を比べて、「昔のほうが人間関係がよかった」という点なんかは必ずしもあってないような。


昔懐かしい地域の連帯を謳っているものの、翻ってみれば地域連帯にも暗部はあるわけで、それを乗り越えようとしてきた歴史に焦点を当ててなかったりとかいろいろと。


そうはいっても共感できるところは多々あるし面白い話でした。でも社会学や教育学・心理学の教養がない私は、正しい方法なのかイマイチわからなかったり。

*1:こういったデータは当然全体を把握しているわけではないし、ずっと昔と比較をしているわけではないが、現代の若者の意識を知る参考にはなろう。

*2:個性を伸ばすと謳った教育やここの家庭のしつけの衰退などいろんな具体例を挙げておられた。個性を伸ばすと謳う教育=ゆとり教育が運動会の徒競走で手をつないでゴールするという平等主義へと結実したことを見るに付けても間違っていると思う。しつけはどうだろう?衰退なのか?ただマックで子供を黙らせない或いは「なんでうちの子だけを怒るんですか!?」と逆上したり、なかには子供が先生に「なんで私だけ怒るの!?」といちゃもんをつけたりするのは間違ってると思う。悪いことを起こしたら罰せられると言うのは社会の道理です。法治国家です。