今日も美術史について。今日は「花」の話。授業では「花」は主題ではなかったんだけど、気になったので。


 西洋美術史における「花」とは、美しさと儚さを備えたアイコンとして描かれています。一口に「花」といっても色々種類はあるわけで、例えば百合を持った女性はマリアを表すアイコンになり、儚さの象徴ではありません。


 今日は「壺に活けられた花束」を見ました。時代はルネサンスを過ぎたマニエリスムの頃、16世紀後半の絵画です。


 その絵には花だけでなく、しゃれこうべも描かれいます。頭骸骨は「死」の象徴です。生命の盛りの美しさの「花」としゃれこうべが持つ「死」のイメージを同時に描くことで「生の儚さ」を演出するのです。


 いわゆるmemento moriですね。英語に直すとmemory the deathだそうです。死を思え。


 で、これを見ながらふと、太宰治『右大臣実朝』を思い出しました。実朝の生涯を、実朝に仕えた武士の視点から回顧的に語って、実朝を語る作品です。本ブログでもなんどか取り上げました。



 『右大臣実朝』という作品は「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」という文章に集約されます。実朝自身、やがれアカルクなって行き、滅びの道を歩んでいきます。


 『右大臣実朝』に見る滅びの美学と『花』をイコノロジー的に解釈するのはまた異なるのでしょうが、一瞬のひらめきに輝く美しさというのは共通しているように思います。


 かくも儚さとは美しいものです。桜も散り際が一層美しい。学校の紅葉も満開の時よりも、今の時期のちょっと散ってしまっているほうが幾許かの寂寥感が在る。


 そんなわけで、西洋東洋問わず、同じ事を考えるんだなーと思いました。ちなみによくよく考えてみたら『右大臣実朝』が太宰なかでは一番好きです。


 こんな詩的な文章はやはり似合いませんねぇ。私には。たまにはいいけど。