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豊饒の海 第四巻 天人五衰 (てんにんごすい) (新潮文庫)
- 作者: 三島由紀夫
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1977/12/02
- メディア: 文庫
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↑これは旧版の表紙です。これしかなかったので。
こんな小説があっていいのでしょうか。私はほんとに衝撃を受けました。ものすごい衝撃。感動ではなく衝撃。ラストにあんな結末が待ち受けているとは露知らず、これまで読んできた『春の雪』『奔馬』『暁の寺』のいずれの内容をも破壊させる内容のものでした。
聡子「その松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?」
本多「は?」(P338)
私も「は?」と思いました。これまで読んできたものが一気に瓦解したような気分。清顕は?勲は?ジンジャンは?透は?一体なんだったんだろう。ああ、私にはわかりません。こんな小説があっていいのでしょうか。
それだけじゃありません。結局清顕→勲→ジンジャンと来た輪廻転生の流れが…透はなんだったんでしょう?確かに左腋の下に三つの黒子がありました。でも慶子がいうには透は贋物なんだそうな。
慶子「自然はあなたに目もくれず、あなたに敵意を持つことなど金輪際ありはしないわ。本多さんが探している生れ変りは、自然が自分の創造ったものに嫉妬せずにはいられぬような、そういう生き物なんですもの。」(P299)
こういうことになるらしい。だから贋物なんだとさ。
でも透には最終的に天人の五衰の相が顕れてしまいます。でも透は清顕の生れ変りでもなんでもなく、ましてや聡子のいうように、「清顕」という人物自体の存在が疑わしいものになってしまったのです。聡子がシラを切っているようには思われないし、本多自身も作中でそのように述べています。
この作品の解釈は、きっと色々なところでなされているのでしょうが、私は理解力に乏しいのか、他の三島作品あるいは当時の三島の精神状況の理解に乏しいのか、作品自体の理解がうまくいきません。
三島由紀夫は『天人五衰』を書き上げたのちに市ヶ谷駐屯地で自刃します。彼はどんな心持ちでこれを書いたのかよくわかりません。とかく衝撃的な作品であることは間違いないと思います。『暁の寺』の解説に、三島由紀夫の中の小説世界と現実世界が一緒になってしまったとあり、彼のなかにも甚大なる変化があったのだろうと思われる。
と、ここまで書いてきてやっぱりこの作品がわからなくなってしまいました(わかるわけがない!)。整然とした矛盾といった感じですね。それはこれまで書いてきたとおりです。
なお今年行定勲監督で『春の雪』が映画化され、そのキャッチコピーは純愛だそうですが、天人五衰まで読んだあとの感想では、うまくいえませんが、純愛という一側面で語りつくせる話ではないような気がします。もっと大きな流れ―作中では輪廻転生、阿頼耶識の移り変わり。といってもこれも聡子の一言で胡散霧消してしまったが―のなかで捉えないと、薄っぺらい話になってしまうような気がしてなりません。
と今日の日記はずいぶん長くなってしまいました。それほどにこの作品は重大な意味を持っているといい、その評価に十分堪えうる、日本文学史に深々と突き刺さった槍のような、そんな印象を受ける作品だと思います(別に日本文学史を理解しているわけではありませんが)。