20世紀日本の歴史学

20世紀日本の歴史学

永原慶二『20世紀日本の歴史学

先行研究がちゃんと読めないので、外堀から埋めてみることにした。


そこで先輩も「この本はきちんと読むべき」だと言っていたし、気になっていたのでこの本から読むことにした。


史学史の授業は以前受けたことがあったんだけど、やっぱり授業を受けるのと本を読むのとは全然違う。


本自体は、明治の近代歴史学の成立から現在の歴史学(といっても大体90年代)を歴史家の作品と社会的状況を織り交ぜながら解説。今だから読めるし、内容も理解できるんだと思う。学部生の時ではこうはいかなったとおもう。


面白かったところを中心にメモ。

 国家総動員体制が強化されるなかでも"無思想"の実証主義歴史学は、皇国史観と一線を画する姿勢をほとんど変えなかったのに対し、それに批判的な考えをもち、「現代」から歴史を問い直そうとした歴史家が平泉(澄)と西田(直二郎)であったということは、史学史のなかで歴史学のあり方を考えようとするとき、特に見逃せない重要な問題となろう。 P134括弧内筆者

平泉澄は言わずとしれた皇国史観歴史学者西田直二郎京都帝国大学で文化史学を提唱した人物。京都帝大の第1期卒業生。


この提言は本当に重要な問題だと思う。歴史学のグランドセオリーの問題として。歴史学と今生きている人たちとの関係の問題として。

 そうした意味で、この『中世的世界の形成』に示された歴史認識は、今日そのまま継承できるものではない。しかし、これまで年代記的な政治史・外交史を正統の歴史として慣れ親しんできた人びとも、歴史を構成する全社会層が対抗躍動する歴史の緊張とダイナミズムの面白さ、政治史・社会経済史から思想史までをどのように統一的にとらえ、歴史の全体認識を可能にしてゆくか、またその際、歴史認識の理論がいかに有効であり重要であるか、といった問題にはじめて目を開かされ、底知れぬ衝撃を受けたのである。
 そうした意味で、この書物はただ単に一般的な意味における名著というにとどまるものではなく、日本の歴史学のあり方を根源的に革新するほどの史学史的意味をもつものであった。   P148

石母田正ってやっぱりすごいよ。俺も全部読んだけど、黒田荘一箇の歴史とはいえ、そこから政治史・社会経済史・思想史までを含んで描くという作業は並大抵ではない。永原氏も言っているけど、歴史の全体認識を考える際にはやっぱり忘れてはならない視点だよね。歴史認識の理論の重要性もね。

だけど、石母田氏でさえ中国との歴史的比較においては、アジア的停滞性論に惑わされていて、西欧への発展という戦前以来の視覚を継承していたということは今まで気がつかなかった。

戦後歴史学は大まかにいえば実証主義マルクス主義歴史学が主な潮流だったわけだけど、マルクス主義歴史学についてはこんなことも言っている。

「普遍」「法則」認識は「あるがまま」の一回的史実の尊重というランケ以来の考え方と違い、歴史における「進歩」や「発展」を視軸とするから、二つの段階や時代の前後の相違がまず問われることになる。その相違を明らかにすることが歴史における「進歩」の確認ということになる。歴史における「進歩」に懐疑的な批判者は、マルクス歴史学は「生産力の発達」を「進歩」の唯一の内容と解しているといって非難することがしばしば見られるがそれは誤解であろう。歴史的社会の「進歩」は経済のみならず、人権・自由・民主主義・「文明」などをはじめとする、もっと複雑多様な人類的価値の総体の問題として理解される必要がある。 P190

マルクス主義歴史学は確かに経済の発展を「進歩」の基盤と捉えるから、こういう「誤解」が生じるのだと思う。俺自身、この本を読むまではマルクス主義歴史学に対してかなりの誤解が有った。進歩云々はともかく、前後の段階・時代の相違を問うというのは、今では歴史学の基本的なスタンスになっていると思う。


戦後歴史学マルクス主義歴史学一色で出発したと思ってたんだけど、あながちそうでもなかった。それとマルクス主義歴史学実証主義歴史学が対置されうる歴史認識の方法だとはあんまり思ってなかった。実証主義ってグランドセオリーはどうあれ、基礎作業だと思ってたんだけど、マルクス主義歴史学みたいに現実に直接寄与しようとする指向性を持っていなかったと考えられていたと思われるわけだ。

戦後最初の『岩波講座日本歴史』では両者の交流がされたって永原慶二は言ってるから、彼にはそれほど溝があると認識されていたんだろうな。


俺たち世代が戦後歴史学を振り返るとき、マルクス主義歴史学が「サヨク」一色に塗られたイデオロギー的な怪しさを感じるのはやっぱり正しくなくてその意味で、

今日、戦後史学史が話題となるとき、「戦後歴史学」という言葉は、しばしば否定のニュアンスで用いられ、その内容は単純化された「単線発展段階論」におきかえらえている。しかし、それは今まで述べてきたような戦後歴史学の多彩活発な成果をあえて単純化し、みずからその豊かな稔りまでを捨て去るような理解ではないだろうか。 P195

という指摘は重要だと思う。俺たち世代が先行研究を読むときに戦後歴史学の雰囲気をわかっていることはとても重要だ。「単線発展段階論」という言葉は、俺たち世代の戦後歴史学に対するイメージを言い得て妙だと思う。


マルクス主義歴史学は確かに一世を風靡したのだけど、その終りについては俺のイメージではなんだかあんまり咀嚼されてきていない気がするし、この本でもなんだかあんまりうまく説明できてない気がするんだよな。永原慶二がマルクス主義歴史学の有用性を説くのは分かるんだけど、ソ連崩壊とマルクス主義歴史学の関係について、一言も言及がないのはかなり問題だと思う。


それと社会史の隆盛とその背景については勉強になった。高度経済成長とポストモダン潮流、戦後歴史学の一国史史観が関係しているのだそうだ。しかしドイツやフランスでの社会史は、ナチスに対するレジスタンスと不可分の関係にあるというのも面白い。だけどマルクス主義歴史学のようなグランドセオリーには成り得ないというのも、現状を見れば分かる気がする。社会史ってなんとなくだけどしぼんじゃった気がする。網野善彦の死とともに。



この本は一気呵成に読んだから理解が及ばない部分も多々あるんだけど、不満を敢えて書いてみると、ポストモダン歴史学との関係や構造主義やテキスト論と歴史学との関係についてもっと踏み込んだ議論を展開して欲しかった。


21世紀を生きる我々からすると、グランドセオリー不在と言われる今に直面している以上、歴史学の外部から投げかけられる疑問に対して、永原氏ほどの大物がどのように考えていたのか、それを知りたかった。


歴史学の現在における存在意義は、永原氏がこうだと言って解決する問題ではないけど、どのように考えているのか、我々若い世代はその課題をどう克服していけばいいのか。もっとそこのところの問題提起ないし、話がほしかったなあ。

ポストモダン」は、体制からの離脱や「統合」の拒否からだけでは新しく組織された歴史段階としての社会を構想し、展望することはできない。 P315

もっとつっこんでほしかったけど、鬼籍には入られた今ではいかんともしがたい。




甘えるな。



自分で考えろってことだな。